Archerの春秋

英語の翻訳や格闘ゲームをする人が、中国古典について書いています。

反証としての伍子胥の死

魏武明罰令云,聞太原、上黨、西河、雁門,冬至之後一百有五日,皆絕火寒食,云為介子推。夫子推,晉之下士,無高世之德。子胥以直亮沉水,吳人未有絕水之事。至於子推,獨為寒食,豈不偏乎。(『玉燭寶典』二月仲春)

 隋の杜台卿『玉燭宝典』には魏の武帝、つまり曹操が出したとされる「明罰令」が収録されている。

 上記に引用したその冒頭部を掻い摘んで言えば、太原などの地で介子推のために行なわれていた寒食の慣習を曹操は禁止しようとした。そこで春秋呉に忠誠を尽くした伍子胥が最後は死刑になり水に沈められたのに、呉の人々は水を使うのを止めていないではないか、と禁令を正当化しているのである(こちらに後続の文章を含めた訳あり。本記事でも参考としました)。

有以飯死者,而禁天下之食*1,有以車為敗者,禁天下之乘,則悖矣。(『淮南子』說林訓)

【高注】申生雉經,晉不絕繩。子胥自沉,吳不斷水

  さて、『淮南子』説林訓には、飯で死亡した人がいたからといって全国の食を禁じたり、車で事故を起こした者がいたからといって全国の車を禁止するのは道理に外れている、と極端な禁令を戒める文言がある。

 高誘はこの文に対し、晋の申生が縊死した*2からといって晋の人々が縄を使用を止めたわけではなく、伍子胥が水に沈んだからといって呉の人々が水の使用を断ったわけではない、と注している。史事をもって上記のような禁令を出すことの愚かさを解説しているわけである。

 晋の人物について「明罰令」は寒食の由来となった介子推、こちらは太子申生という違いはあるが、伍子胥の死が水の使用の禁止に結びついていないことに言及する点は同じである*3

 ところで、高誘が『淮南子』の注を著したのは、その「叙目」によれば建安十年(205年)に司空掾として辟召され、濮陽令に任命されたときのことという。

建安十年,辟司空掾,除東郡濮陽令,覩時人少為淮南者,懼遂凌遲,於是以朝鋪事畢之閒,乃深思先師之訓,參以經傳道家之言,比方其事、為之注解、悉載本文、并擧音讀。(『淮南鴻烈解』叙目)

 つまり高誘は曹操集団に属していた人物なのである。「明罰令」がいつ出されたのかは不明であり(対象範囲が旧袁氏領であることを考慮すると、建安五年以降だろう)、どちらが先行するのかは確定できない。ただ、行政と学術という違いこそあれ同じ時代、同じ政治集団の中で伍子胥の死が極端な慣習や禁令に対する反証として使われたのである。

*1:淮南子集釈』が先学を引いて指摘するように、『太平御覧』疾病部四での引用は「噎」に作ることや、『呂氏春秋』孟秋紀に同様の文がありそこでは「饐」に作っていることから「食」は誤りとされるが、そのままとした。

*2:『国語』晋語二の「驪姬退,申生乃雉經於新城之廟」に由来。

*3:なお、同様の表現はより早く『楚辞』離騒の王逸注にも「申生雉經,子胥沉江,是謂多難也」と見える。