ふたりの孫皓
詩七月正義、吳志孫皓問、月令季夏火星中。答曰、日永星火、舉中而言、非心星也。是鄭以日永星火、與心星別。今按、康成答問、蓋鄭志所載、孫皓乃康成弟子、後人因孫皓名氏、遂改鄭志為吳志。康成不與吳孫皓同時、吳志亦無此語。(『困學紀聞』卷三 詩)
『毛詩正義』七月の疏に引用される鄭玄とその弟子である孫皓の問答について、王応麟『困学紀聞』は後代の人間が孫皓の名に引きずられて(呉帝のほうと誤認し)『鄭志』*1を『呉志』に改めたのであろう、と指摘している。
王氏が続けて言うように、呉帝の孫皓が鄭玄と同時代の人間ではないこと、また鄭玄と弟子の問答集として『鄭志』があったことは常識の範疇であったはずで、なぜこのような誤った校訂が行われたのか少しく疑問である。
それはさておき、諸書に引用される『鄭志』に孫皓は何度か登場するが、以下はその一例である。
鄭玄荅孫皓曰、凡自周無出者、周無放臣之法、罪大者刑之、小則宥之。(『春秋正義』成公十二年疏)
孫皓の質問は引用されていないが、鄭玄は周に臣下を国外追放する法はなく、罪が大きい者には刑を加え、小さい者は許すのである、と答えている。
いっぽう、呉帝の孫皓は暴君として悪名高く『三国志』はその苛烈さを次のように記している。
宴会の後、側近が迕視や謬言といった出席者の落ち度を奏上し、孫皓はその大きい者には即座に威刑を加え、小さい者も例外なく罪とした、という。鄭玄は弟子の孫皓に小さい罪は許すのが周法と答えたが、呉帝の孫皓は大小に関係なく罰したのである。無論、時代も違えば、亡国の君主にありがちな誇張された暴君説話の可能性もあるが。
*1:鄭玄の孫である鄭小同が鄭玄とその弟子の問答を記録した書。