Archerの春秋

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鄭玄は『武陵太守星伝』を読んだか?

以禋祀祀昊天上帝、以實柴祀日・月・星・辰、以槱燎祀司中・司命・飌師・雨師。(『周禮』春官大宗伯)

【鄭注】司中・司命、文昌第五第四星、或曰中能上能也。

【賈疏】案、文昌第四云司命、第五云司中。此經先云司中、後云司命、後鄭欲先說司中、故先引第五證司中、後引第四證司命、故文倒也。案、武陵大守星傳云、文昌宮六星、第一曰上將、第二曰次將、第三曰貴相、第四曰司命、第五曰司中、第六曰司祿。是其本次也。云或曰中能者、亦據武陵大守星傳而言

  『周礼』大宗伯の司中・司命について、鄭玄は文昌宮の第五・第四星であり、ある説はこの2星がそれぞれ中能(中台)と上能(上台)であるとしている、と解説している。これを承けて賈公彦は『武陵太守星伝』なる書物の一条を引用し、鄭玄が「ある説は中能と言う」と言うのはこの『武陵太守星伝』に依拠したのだ、と案語で述べている。

 賈公彦が引いた『武陵太守星伝』は、後漢末に劉表が武陵太守の劉叡に命じて編纂させた『荊州占』のことだろう(『旧唐書』経籍志には「荊州星占二卷劉表撰。又二十卷劉叡撰」、『新唐書』芸文志にも「劉叡荊州星占二十卷」とある)。

圖緯舊說,及漢末劉表荊州牧,命武陵太守劉叡集天文眾占,名荊州占。(『晉書』天文志)

 劉表荊州入りするのは中平6(189)年の霊帝崩御後まもなく、『晋書』のいう荊州牧になるのは李傕・郭汜の長安入り後のためさらに遅れて初平3(193)年のことである。鄭玄『周礼』注は鄭玄が党錮の禁で蟄居していた期間に完成されたと考えられ*1、最終的に党錮が解かれるのは光和二(179)年のため*2、どう考えても劉表荊州入りより後になることはない。

 となると、鄭玄は『周礼』注制作時に『武陵太守星伝』(『荊州占』)を見ることができないはずであり、賈公彦の疏は正鵠を射たものではないと思われる。

*1:遭黨錮之事,逃難注禮。(『文苑英華』引『鄭君自序』)

*2:丁酉,大赦天下,諸黨人禁錮小功以下皆除之。(『後漢書』孝靈帝紀