Archerの春秋

英語の翻訳や格闘ゲームをする人が、中国古典について書いています。

京都大学人文科学研究所付属漢字情報研究センター編『三国鼎立から統一へ 史書と碑文をあわせ読む』

 東京国立博物館で開催中の「特別展 三国志」。展示の開催に合わせて、三国志関係の書籍も陸続と発売されている。特に、近年発掘された出土史料とその研究成果を盛り込んだ書籍が目立つ。とはいえ、今年以前に発売された魏晋期の出土史料を扱った書籍は少なくない。表題の書籍もその中の一冊である。

 本書は魏晋期の石刻史料に焦点を当てた4本の論考より構成されている。いずれも出色の内容ではあるが、長々と書くのも気が引けるので、管理人おすすめの藤井律之「魏から晋へ―王基碑―」を紹介したい。

 王基碑(厳密には碑文に王基の名は確認できないが、記された官歴や没年などが『三国志』王基伝と一致するためこう呼ばれる)は清の乾隆年間に出土した碑。当時まだ彫られていない朱色の文字が残っていたと伝えられていたが、記録されなかったためその内容と文体について喧々諤々の議論が交わされてきた。

 同碑には2つの謎があるという。ひとつは碑文の本来の姿、そしてもうひとつは碑文が未完成に終わった理由である。前者について著者は従来の説を批判しつつ擡頭や押韻といった点から王基碑の復元を試みるのであるが、その手法は中国公文書の書法の解説としても読者は得られるところが多いだろう。

 次に後者であるが、著者は司馬懿がクーデターにより曹爽一派を駆逐した正始政変の影響を読み取る。碑文の製作者である故吏と碑文により顕彰を受けるその上司との関係に触れ、故吏にとって碑文制作はとりもなおさず官界進出のためのアピールであり、またこれは逆にかつての上司が罪を犯した場合は連座するリスクもあった、とする。

 王基もまた司馬懿に放逐された曹爽の故吏であり、そのため河南尹への任命をとりやめられるほどであった。しかし政変後に司馬氏に転じ文欽・毌丘倹の乱で許昌の兵を率い、諸葛誕の乱では諸軍を監督してその鎮定に功績を挙げた。

 王基は魏の末期である景元2(261)年に死んでいるのであるが、晋王朝成立後に死亡した盧欽らとともにその家に穀物が下賜されている。また、『水経注』によれば王基の死後、その末娘が晋の梁王に嫁いでいる。魏の臣として死んだ王基は晋王朝から積極的に顕彰されることになったのである。

 著者によれば王基碑は司馬懿を皇帝として扱っていないことから(碑文の「後辟大将軍府」の「大将軍」が司馬懿に比定されるため)、西晋期ではなく王基没から魏滅亡までの数年間に作成されたという。魏への忠義を表に出せなかったこの時期、魏の臣として王基を顕彰する碑はその一族にとって迷惑以外の何物でもなく、そのため途中で制作放棄されたのであろう、と著者は結論づける。

 著者が提示する王基碑制作放棄の背景からは、魏晋革命に翻弄される士大夫とその一族の姿が見えてくる。また、碑文の制作には時間がかかり、その間に政変が起こり労力が無駄になるリスクがあったことも読み取れる。

 この後、晋の梁王に嫁いだ王基の末娘と東晋建国に話は及ぶのであるが、それは割愛する。ただ、いずれも歴史の皮肉を感じさせるもので、本論考の「オチ」とも言える内容となっているので、ぜひ読んで欲しい。