Archerの春秋

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ワークライフバランス

 前安帝時,越騎校尉劉千秋校書東觀,好事者樊長孫與書曰:「漢家禮儀,叔孫通等所草創,皆隨律令在理官,藏于几閣,無紀錄者,久令二代之業,闇而不彰。誠宜撰次,依擬周禮,定位分職,各有條序,令人無愚智,入朝不惑。君以公族元老,正丁其任,焉可以已!」劉君甚然其言,與邑子通人張平子參議未定,而劉君遷為宗正、衛尉,平子為尚書郎、太史令,各務其職,未暇恤也。至順帝時,平子為侍中典校書,方作周官解說,乃欲以漸次述漢事,會復遷河輭相,遂莫能立也。(『續漢書』百官志劉昭注引胡広『漢官解詁』自注)

 至六十,為武都守。郡小少事,乃述平生之志,著《易》、《尚書》、《詩》、《禮》傳,皆訖。(『周禮注疏』引『序周禮廢興』)

 後漢の安帝の時代、劉千秋と張衡(平子は字)と協議して漢朝の儀節を選定し、『周礼』に擬えて著わそうとした。しかしその後、劉千秋が宗正・衛尉、張衡は尚書郎・太史令となって多忙を極めたため、この企画は流れてしまった。張衡は順帝の時代にも「周官解説」を作りさらに漢事についても著そうとしたが、河間相に転任したため再び完成させることができなかったという。

 一方、後漢の大儒として著名な馬融は六十歳のとき武都の太守となったが、仕事にゆとりがあったため『易』や『尚書』などの注釈を著すための時間を確保して完成させることができた、と述懐している。

 いずれも後漢の例であるが、言うまでもなく当時の学者は朝廷に職を有しており、その職務をこなさねばならなかった。著述の時間が取れるような職もあればそうでない職もあったようである。劉千秋の場合、張衡と著作のすり合わせが難航したようでもあるし、二人とも激職に就いたことから共著の難しさも伺えよう。

 それにしても著作の計画が二度も流れてしまった張衡の運の無さには同情する。彼のように記録に残ったのはまだ良い方で、著作を志半ばで断念せざるを得なかった例は数多あったのではないか、と愚考する次第。