Archerの春秋

英語の翻訳や格闘ゲームをする人が、春秋学と春秋時代について書いています。

荊州における范蠡

 范蠡といえば、春秋時代の越に仕えて越王勾践が呉を滅ぼすことに貢献した名臣として著名である。『史記』では引退後に巨万の富を得た商人として描写され、また『漢書』芸文志には兵家としてその名に仮託されたと思われる「范蠡二篇」が見える。

 他の先秦期の人物同様、後代に様々な伝説が付加されていった范蠡であるが、昨年に中華書局より出版された黄恵賢『校補襄陽耆旧記(附南雍州記)』(初出は中州古籍出版社、1987年)を読んでいると興味深い記事が目に入った。

峴山南有習郁大魚池,依范蠡養魚法,當中筑一釣臺。(『太平御覧』地部 池溪壑引『襄陽記』)

 峴山の南には光武帝期の習郁(『襄陽耆旧記』【『襄陽記』】の編者である習鑿歯の祖先)の大魚池があり、習郁は范蠡の養魚法にならい、釣台を築いたという。

 『文選』に収録される張協「七命八首」の李善注には「陶朱公養魚経」なる書物が引用されている(『隋書』経籍志では「陶朱公養魚法」)。成立時期は不明ながら、斉の威王に蓄財の術を聞かれた陶朱公が鯉の養魚法でもって答える内容となっており、范蠡に養魚家としての性格が付加されていたことがわかる。

 上述の逸話は東晋期の『襄陽耆旧記』に収録されているのであるが、南北朝期には范蠡荊州の出身者とする認識があったらしい。やや時代が下るが劉宋の盛弘之『荊州記』は荊州范蠡の墓があり、宛の出身であったとしている。

荊州華容縣西有陶朱公冢,樹碑云是越范蠡范蠡本宛三戶人,與文種俱入越,吳亡後,自適齊而終。(『史記』越王句践世家『正義』引『荊州記』)

 また『呂氏春秋』二月紀の高誘注には「范蠡,楚三戶人也,字少伯」とあり、後漢末には范蠡が当時の荊州出身とする説が既に存在していたようだ。

 『国語』や『史記』に拠る限り范蠡の出身地は不明であり、引退後には斉で財を成して陶で鬼籍に入る。荊州に繋がりがない范蠡が同地の出身とされ、また最後の地とされ、さらには養魚を媒介として地元累代の豪族である習氏と結びつけられていくその展開は、説話が持つ広がりの可能性がうかがえる。

「玄」は何者か

 先日、芸文印書館の十三経注疏『左伝』を確認していて気になったこと。

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鄭玄云不可以國語亂周公所定法傳玄云國語非丘明所作凡有共說一事而二文不同必國語虛而左傳實其言相反不可強合也(『春秋正義』哀公十三年疏)

 いま敢えて白文で書き起こしたが、黄池の会で血をすする順序を『左伝』は晋を、『国語』呉語は呉をそれぞれ先としていることから、『国語』の記述は『左伝』と同等に扱えるのかが争点になっている。ここでは冒頭に鄭玄の説が引用されており、さらに「玄云…」とある。しかし鄭玄の諱をわざわざもう一度書いていることに違和感を感じた。そこで参考までに北京大学の標点本を瞥見すると、以下のようになっている。

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 芸文印書館本で「傳」とされていた字が「傅」になっている。つまり、疏が引用したのは鄭玄ではなく魏晋期の学者である傅玄だったのだ。

 なお、芸文印書館本で他の「傅」を含む条文を複数件確認したが、一例として、両字が比較しやすい「春秋序」の一節に対する疏の画像を以下に貼る。その違いは一目瞭然だろう。

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 本記事で問題にした哀公13年の疏文には校勘が付されていないが、ここは『左伝』と『国語』に対する傅玄の認識を示す重要な一文であるだけに、残念度の高いミスである。

鄭玄と荀文若の問答

 『周礼正義』に見える鄭玄のエピソード。

 案,漢時徐州刺史荀文若問玄,周禮父之讎辟之海外,今青州人讎在遼東,可以王法縱不討乎。當問之時,玄已年老,昏耄,意忘九夷、八蠻、六戎、五狄謂之四海。(『周禮正義』調人)

 あるとき、徐州刺史の荀文若が鄭玄に問うた。『周礼』(「調人」の条)には調停のため父の仇は「海外」に避けしめる、とあります。いま青州の人の仇が遼東にいるとすれば討ってはならないのでしょうか、と。しかしこのとき鄭玄は年老いて耄碌し、同条の「海外」を九夷・八蛮・六夷・五狄と注釈したことを忘れていた。

 後漢末期の荀文若といえば、曹操の腹心として著名な荀彧が想起されるが、荀彧が徐州刺史に就いたことは記録に見えない。加えて、このとき鄭玄が耄碌していて『周礼』注の一節を思い出せなかった、とあるのも疑わしい。

 遭黨錮之事,逃難注禮。黨錮事解,注古文尚書、毛詩、論語袁譚所逼,來至元城,注周易。(『文苑英華』引『鄭君自序』)

  時袁紹曹操相拒於官度,令其子譚遣使逼玄隨軍。不得已,載病到元城縣,疾篤不進,其年六月卒,年七十四。(『後漢書』鄭玄傳)

 自序によれば、鄭玄は袁譚の要請を受けて元城県へ至ったときに『周易』注を著したという。『後漢書』によれば、これは官渡で曹操と対峙していたときのことで、鄭玄はこの年に死亡したとある。もし『周礼正義』の逸話のように耄碌していたのなら、『周易』注を記すことはできなかったのではないだろうか。史実というよりも、説話の類だろう。

 

小倉芳彦訳『春秋左氏伝』

 『春秋左氏伝』(以下、『左伝』)といえば本朝でも古くから読まれきた漢籍のひとつであり、それだけに邦訳も多い。その中で現在最も入手しやすく、持ち運びやすいのが岩波文庫の本書であろう。

 『中国古代政治思想研究―『左伝』研究ノート』(初版は青木書店、1970年。その後、論創社より『小倉芳彦著作選Ⅲ 春秋左氏伝研究』として2003年に再刊)によれば、訳者が『左伝』に関心をもつようになったのは、石母田正が1956・1957年ごろに提唱して開始された読書会だという。この読書会には日本史から石母田氏のほか藤間生大西洋史から太田秀通と土井正興、そして東洋史からは増淵龍夫と西嶋定生、上原淳道といった錚々たる顔ぶれが出席していた。月1の集まりで1961年ごろまで続き、成公2年まで読んだところで『荀子』に切り替わり、著者も出席しなくなったとのことである(以上、同書P.9~10)。

 それまで『論語』研究を志していた訳者はその後、『左伝』についての論文を次々と発表していくことになるのだが、特に本文の叙述につき三層の構造を指摘したことは著名である。本書の「解説」によれば、そのときの考察が史伝説話集として『左伝』を読む試みの源泉になっているという。

 いま述べたように、本書の立場は『左伝』を史伝説話集として読むことにある。このことは「凡例」と「解説」で幾度となく説かれているので、以下その一部を挙げておく。

春秋時代の説話集として『春秋左氏伝』を読もうとする本訳書では、考証類を思い切って省略した。(上巻「凡例」、P.3)

われわれとしては、『春秋左氏伝』という書物を、春秋時代を中心とした中国古代の史伝説話の宝庫として、素直な眼で読むことが可能だし、またそう読むべきものだと考えている。(下巻「解説」、P.506)

春秋時代の史伝説話集として『春秋左氏伝』を読もうとする本訳書の立場からすれば、誰が、いつ、どこでこれを作成したかという設問は、あまり意味をもたない。

 さて、本書最大の特徴のひとつは、段落の頭に逐一振られた通し番号であろう。「凡例」によれば訳者が底本とした楊伯峻『春秋左伝注』をほぼ踏襲したものとのことであり、各巻末の「列国大事索引」と併用することで、読者は編年体の『左伝』に散らばる説話や関連する出来事を追える仕様になっている。こなれた訳とともに、史伝説話集としての『左伝』の面白さを一般読者に伝えんとする訳者の配慮がうかがわれよう。

 とはいえ「隠公左伝、桐壺源氏」という言葉があるように、そして訳者も「決して通読しておもしろい書物ではない」(下巻「解説」、P.522)と認めるように、およそ250年の春秋時代を扱う『左伝』を通読するのは容易なことではない。そこで訳者は「解説」の末尾に共叔段の乱から呉の楚都入城まで13の名場面をまとめ、関連する前後に視野を広げることを期待している。

 惜しむらくは原文と書き下しが無いこと、「解説」の文献案内が今となっては古いこと、そして楊伯俊『春秋左伝注』に拠ったために原文と乖離のある訳が見られることである。ただそれらが本書の価値を毀損するものでないことは、研究者から一般読者まで幅広く本書が支持され版を重ねていることからも明らかであろう。

 

 以下は余談。

 

 本書は上中下3巻の構成となっているが、うち上巻は奥付によれば「1988年11月16日 第1冊発行」となっている。つまり昭和63年11月に上巻が発売され、中下巻が平成に入ってから出版された、二つの時代にまたがった翻訳である。上巻の発売後2ヶ月もせずして改元を迎えることになるのであるが、上巻に収録される僖公および文公には以下の文言がある。

夏書曰,地平天成,稱也。(僖公24年)

舜臣堯,舉八愷,使主后土,以揆百事,莫不時序,地平天成(文公18年)

 終了を間近に控えた現元号「平成」の出典は『史記』五帝本紀の「内平外成」および『尚書』(『偽古文尚書』)大禹謨の「地平天成」であるが、『左伝』にも類似の表現は存在するのだ。当該文を収めた上巻が昭和末に発売されたというのは、いま振り返ればなかなか面白い偶然ではないだろうか。なお、本書の発行元である岩波書店からは『文選』の訳注(通称「六人注」)が現在刊行中であるが、『文選』は日本の元号の選定において幾度となく出典とされた漢籍であることを附記してこの記事を終えたい。

元気と新君即位

 間近に迫った新天皇の即位を前に、新元号への関心も高まっている昨今。そのような中、以下の記事を目にすることがあった。

 

this.kiji.is

 

www.j-cast.com

 いずれの記事でも「元気」が新元号に関連して話題になっているが、「元気」と新君の即位は深く関係するという考え方は存在する。

 變一為元,元者,氣也。無形以起,有形以分,造起天地。天地之始也。故上無所系而使春系之也。不言公言君之始年者,王者、諸侯皆稱君,所以通其義於王者。惟王者然後改元立號。春秋托新王受命於魯,故因以錄即位,明王者當繼天奉元,養成萬物。(『春秋公羊傳』隠公元年何休注)

 『春秋』経文が「元年春王正月」と書くことについて、後漢末に『春秋公羊伝』の注釈を記した何休は、一(年)が元(年)と書き換えられるのは元が気であるから、とする。気というものは形無きものとして発生するが、やがて形を持って分かれ天地の始めとなる。始めである以上その上には何も繋げられず、下に「春」を繋げるのである。王者*1が天意を継いで元を奉じ、万物を養成することを明らかにしている(ので元年と書く)、と解説する。

 また、『公羊伝注疏』は、後漢期に流行した讖緯の一種である『春秋説』を引用する。

 春秋說云,元者,端也。氣泉。注云,元為氣之始,如水之有泉。泉,流之原。無形以起,有形以分。窺之不見,聽之不聞。宋氏云,無形以起,在天成象。有形以分,在地成形也。然則有形與無形,皆生乎元氣而來,故言,造起天地,天地之始也。

 『春秋説』は「元」を「端」(はじめ)であり、気の泉であると説く。さらにその注*2は、「元」は気の始めであり、水の流れに泉があるようなものだ。泉は水の流れの源である、とする。『春秋説』の成立年は不明であるが、後漢期において「元」が「気」と結び付けられ、万物の根源であると考えられていたことを示していると言えるだろう。

 無論、現代日本語で用いられる「元気」と、ここで挙げた「元」・「気」の意味するところは異なる。また、冒頭で引用した記事で「元気」に言及した首相補佐官もネットユーザーも、かかる公羊学と讖緯の思想を意識してはいなかっただろう。ただ、日常のふとした事が古典の文言を回顧する機会を与えてくれることもあるものだ、と思い記事にしてみた。

*1:ここでは『春秋』が新王の命を託しているとする魯公

*2:注釈者の名が記載されていないが、後文と同じく曹魏の宋均か

上野賢知『日本左傳研究著述年表 並分類目録』

 上野賢知といえば、竹添進一郎『左氏会箋』の出典を調査した『左氏会箋遡源』で名高いが、本書は日本における『左伝』の利用について述べた若干の文章、『左伝』関連著作の一覧とその年表、そして『左氏会箋』が引用した諸書の目録(「左氏会箋引用書目」)などで構成される。

 さて、「左氏会箋引用書目」の直前には「左傳杜解評釈『否臧』に就いて」という文章が掲載されており、『左伝』杜注の評釈書『否臧』について述べられている。同書は、上野氏が昭和27年4月に神田神保町の山本書店にて購入した「珍書」であるという。

 『否臧』の著者は姓不明の「昇」という京都の人。上野氏が同書の記述より復元した昇氏の経歴によれば、生年は享保8(1723)年。長じてより京都の公卿に仕えていたが、25歳のとき事に坐して「相馬牝谷ノ丘」(所在不明)に幽閉されること31年、その間に本書と『易』について記した『熊蹯』を著した。

 本論の後半は隠公3年経文「天王崩」の解釈について、昇氏の見解の訳載が数ページにわたって続く。上野氏は特に解説を加えていないのであるが、昇氏の学問がうかがえる記述があるので以下に引用したい。

 日者(コノゴロ)此ノ間に物茂卿ナル者有リ、喜ンデ宋儒ヲ詬リ、喜ンデ新奇ヲ出ス、然レドモソノ祖述スル所皆孔安国以下ナリ、安国ヲ信ジル尤モ太甚シ、毎ニ言フ家自ラ古来相伝ノ説有リト、然レドモ中庸ノ書を解スルに至リ、宋の朱熹適〻安国ノ解ニ従フ、是ニテ反ツテ鄭玄言を成サント欲シ…(中略)諸徴言昭々トシテ白日ノ如シ、皆茂卿ノ知ル所ナリ、然レドモ異物ヲ出シ、流俗ヲ蠱シテ以テ自ラ楽シム、故に予之ニ命ジテ滑稽儒ト曰フ、ソノ世ヲ翫ブ亦太甚シ…

 物茂卿は言うまでもなく荻生徂徠のこと。徂徠の没年は享保13(1728)年、昇氏が生まれて5年後には鬼籍入りしている。「喜ンデ宋儒ヲ詬リ」とあるのは、徂徠による朱子学批判を指すのだろう。昇氏は続けて、徂徠は自家に古来から相伝された説があると標榜しているが、その実は孔安国以下の説を祖述しており、特に孔安国説に傾倒している、という評価を下す。さらには世間を惑わして楽しむ「滑稽儒」とさえ非難しており、昇氏は徂徠について厳しい意見を持っていたようである。

 夫レ諸夏ハ輔頬舌ヲ動カスニ便ナラザルハ天ナリ、然レドモ近古の書生黽勉トシテ西戎ノ俗ニ放ヒ、務メテ輔頬舌ヲ鼓シ、音ヲ追ヒ、義ヲ求ム、其レヤ幾許カソレ安クンゾ能ク尽サン、(中略)西極ノ民弔セラレズシテ、庖犠氏ノ化に浴セズ、是ヲ以テ仍ホ輔頬ノ舌ヲ動シテ結繩ノ跡ヲ休シテ時物を薄写スルコト能ハズ…

 欧州人を「西戎」や「西極ノ民」と呼び、庖犠(伏犠)の教化が及ばなかったため結繩の政を止めることができなかった、というのは漢学への傾倒から来る偏った意見であろう。しかしそれを割り引いても、成り立ちの違う言語の発声法を安易に用い、音から意味を求めようとする行為に警鐘を鳴らす昇氏の言葉は、今日でも戒めとして通用するのではないだろうか。

恵公二年?

 移行時に消してしまった記事。キャッシュが残っていたのでそこから復元しました。

 『春秋左氏伝』(以下『左伝』)の邦訳として広く読まれている小倉芳彦訳『春秋左氏伝』(以下「小倉訳」)。小倉氏の『左伝』研究を反映した評価の高い訳本であるが、以下の文公11年の訳文については注意を要するのではないか。

 晋が赤狄潞子を滅ぼした際には(宣十三3)、僑如の弟焚如を捕獲し、斉の恵公二年(607 B.C)に鄋瞞が斉を攻めた際には…(小倉芳彦訳『春秋左氏伝』上、361頁)

 

 ここの『左伝』原文を確認すると

 晉之滅潞也,獲僑如之弟焚如。齊襄公之二年,鄋瞞伐齊。

 

 斉の恵公2年ではなく斉の襄公2年であることが了解される。これは解せない、小倉氏の誤訳ではないかと口にしたくなる人もいるかもしれない。しかし小倉訳はその巻頭に附された「凡例」で以下のように明記している。

 一、本訳書は底本として楊伯峻編著『春秋左伝注』全四冊(中華書局、一九八一年、「楊注本」と略称)を用いた。
 九、翻訳に際しては楊伯峻氏の注を尊重し、同時に楊注本に準拠した現代中国語『左伝訳文』(沈玉成訳、中華書局、一九八一年)を参照したが、場所によっては訳者の考えによった部分もある。

 

 で、『春秋左傳注』(以下「楊注」)の当該部がこれ。

 
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 襄公2年(=魯の桓公16年)では焚如の捕獲と103年も隔たっており無理がある。『史記』魯世家などに従って恵公2年に改めるべき、という楊注を妥当とみなして訳文に取り込んだとみてよいだろう。

 楊注の説は非常に説得力があるが、これを採用したことにより小倉訳は原文を改変してしまっており、原文を読んでいない読者は気づかない。また、読者全員が楊注を所有し確認できるわけではないだろう。小倉訳は管理人が記事を作成するうえでも大いに参考にさせていただいているが、ここは意見の分かれる訳ではないかと思った次第。それでも小倉訳の価値が落ちるわけではないので、興味をもった人は買おう