Archerの春秋

英語の翻訳や格闘ゲームをする人が、春秋学と春秋時代について書いています。

王引之

 先日、とあることで野間文史「読五経正義札記」(『東洋古典学研究』第8号)を読んでいた。『毛詩正義』に複数回登場する「王述之」および服虔『春秋左氏伝解誼』の引用を例に、『五経正義』の疏文における人名・書名、ならびに佚書の引用範囲の確定について論じたものである。

 「王述之」について、まず野間氏は自らが目睹した『毛詩注疏引書引得』(哈仏燕京学社、1937年)がこれを人名としていることを挙げ、『隋書』経籍志にその名が確認できることを示す。次に、「王述之」を含む疏文を馬国翰『玉函山房輯佚書』が「毛詩王氏注」として収録していることを指摘し、人名ではなく「王(粛)之を述ぶ」である(無論、清儒が訓読するわけはないのだが)ことを挙げる。

 この後、野間氏は「王述之」は後者が正しいことを論証するのであるが、長々と書くのも気が引けるので割愛。それよりも、管理人の興味を引いたのが野間氏の最後の言である。

 漢文世界でよく引き合いに出される「王引之」を「王 之を引く」と訓んだという笑い話(?)を、筆者はなかなか笑う気にはなれないのである。

 この話題は、中国学・漢文に興味をお持ちの方なら一度は耳にしたこと(あるいは目にしたこと)があるのではないだろうか。清儒の王引之(おう・いんし)を人名と判別できず、誤って訓読したのが「王 之を引く」である。

 それでは、「王述之」のように、誤りではなく「王 之を引く」と読める「王引之」は無いのだろうか。

王喜說、報博書曰、乃者詔下、止諸侯朝者、寡人憯然不知所出。子高素有顏冉之資、臧武之智…(『漢書』卷八十 宣元六王傳)

【顔注】顏、顏回也。冉耕也、字伯牛。皆孔子弟子。論語孔子曰、德行顏淵・閔子騫冉伯牛・仲弓。臧武者、魯大夫臧武仲也、名紇。論語孔子曰若臧武仲之智、故王引之為言也。

 ここでは、前漢末の淮陽憲王(劉欽)が張博のことを顔回と冉耕、臧武仲に擬えている。『漢書』注釈者の顔師古はこの評価が『論語』の孔子の言葉を典故としていることを挙げ、最後に「故王引之為言也」と注している。

 この「王引之」は文脈からも、そして唐代の顔師古の注であることからも清儒の王引之とは読めず、「故に王 之を引きて言を為すなり」と訓ずべきであろう。笑い話ではなく王が引用している、確かな例である。

分散する名族

 今年の初買いとなったこの本を読んでいたところ、以下の逸話が興味を引いた。

齊文襄嘗言肇師合誅,左右問其故,曰,崔鴻十六國春秋述諸僭偽而不及江東。左右曰,肇師與鴻別族。乃止。(『北史』崔亮傳附崔肇師傳)

 斉の文襄帝(高澄)はかつて「崔肇師を誅殺すべきだ。」と言った。側近の者たちがその理由を聞いたところ、文襄帝は「崔鴻『十六国春秋』は諸々の僭偽(非正統王朝)のことを記述したが、江東の諸王朝(東晋・劉宋・蕭斉・蕭梁)のことを記さなかったからだ。」と答えた。側近たちは「しかし、崔肇師は崔鴻とは別系統の一族であります。」と言った。そこで崔肇師を誅殺するのを止めた。」(以上、訳は上掲書P.61に従った。)

 崔肇師は祖父の『北史』崔亮伝によれば崔琰の後裔、本貫地を清河東武城とする清河崔氏である。対して『十六国春秋』編者の崔鴻について、『魏書』はその先祖である崔曠の本貫地を「東清河鄃」としており、他の清河崔氏とは異なる存在である認識を持っていたとされる

 この逸話からは、魏晋期に名門とされた崔氏が南北朝期に枝分かれしていった様子をうかがうことができるが、同様の例は他にもある。

初,密太后父豹喪在濮陽,世祖欲命迎葬於鄴,謂司徒崔浩曰,天下諸杜,何處望高。浩對京兆為美。(中略)中書博士杜銓,其家今在趙郡,是杜預之後,於今為諸杜之最,即可取之。詔召見。(『魏書』杜銓傳)

 ここで北魏の世祖(太武帝)は崔浩に、天下の杜氏の中で最も声望が高いのはどの家か、と質問している。杜氏といえば杜預を出した京兆杜氏であるが、崔浩が杜預の後裔とした杜銓が趙郡に居住していたように、南北朝期には襄陽や中山などにも杜氏がいた。上記の崔氏の逸話とあわせて考えてみると、戦乱の影響でかつての大族が各地に分散し、その系統を把握することが難しくなっていたようである。

 なお、崔浩は清河東武城を本貫とする清河崔氏であるが、『魏書』において父の崔玄伯は「魏司空林六世孫」と崔林(崔琰の従弟)の後裔とされている。したがって、崔琰の後とされる崔肇師とも、東清河鄃を本貫とする崔鴻とも別系統である。

孫検

孫檢曰,秦虜楚王負芻,滅去楚名,以楚地為三郡。(『史記』卷四十 楚世家『集解』)

裴注頻引孫檢,不知其人本末,蓋齊人也。(同 『索隱』)

按:年表作惠公伯雉,注引孫檢,未詳何代,或云齊人,亦恐其人不注史記今以王儉七志、阮孝緒七錄並無,又不知是裴駰所錄否?(卷三十五 管蔡世家『索隱』)

 『史記』三家注の中には今では散佚した『史記』および『漢書』の注釈書が引用されているが、その中には経歴がよくわからない注釈者もいる。

 『集解』の裴駰がしばしば引用する孫検もその一人で、『索隠』の司馬貞は詳細不明としたうえで、斉人とする一説を紹介する。また、『史記』の注釈者ではないのではないかと推測し、南朝で作成された図書目録である王倹『七志』および阮孝緒『七録』に載録されていない、と述べている。

 ただ、次の『集解』の一文から、孫検がいつの時代の人なのかを特定できる。

瓚曰,今南鄉酇縣也。孫檢曰有二縣,音字多亂。其屬沛郡者音嵯,屬南陽者音贊。按茂陵書,蕭何國在南陽,宜呼贊。今多呼嵯,嵯舊字作䣜,今皆作酇,所由亂也。(卷五十三 蕭相國世家『集解』)

鄒氏云,屬沛郡音嵯,屬南陽音贊。又臣瓚按茂陵書,蕭何國在南陽,則字當音贊,今多呼為嵯也。(同『索隠』)

 ここでは瓚(臣瓚)の次に孫検の説が引用されている。注釈においてどこまでが本人の説で、どこからが他説の引用であるか/他者の説であるかは常に頭を悩ませる問題であるが、次の『索隱』に「臣瓚按茂陵書」とあることから、『集解』の「按茂陵書」の前に引用される孫検の説は臣瓚が引用したものと判断してよい。

 臣瓚は顔師古『漢書敘例』によれば晋初(西晋)の人という*1。であるならば、孫検は臣瓚と同時代かそれ以前の人物だろう。

*1:有臣瓚者,莫知氏族,考其時代,亦在晉初,又總集諸家音義,稍以己之所見,續廁其末,舉駮前說,喜引竹書,自謂甄明,非無差爽,凡二十四卷,分為兩帙。

杜乾光『春秋釋例引序』

南人多云此本釋例序,後人移之於此,且有題曰春秋釋例序,置之釋例之端。今所不用。(『春秋左傳正義』春秋左氏傳序)

陸曰:此元凱所作。既以釋經,故依例音之。本或題為春秋左傳序者。沈文阿以為釋例序,今不用。

 『左伝正義』によれば、南北朝時代南朝では杜預『春秋経伝集解』(以下『集解』)の序を『春秋釈例』の序と認識する学者が多く、陸徳明によれば梁~陳の沈文阿もその名を『釈例序』としていたという。

春秋釋例十五卷杜預撰。梁有春秋釋例引序一卷,齊正員郎杜乾光撰,亡。(『隋書』經籍志 經籍一)

 さて、隋志は南斉の杜乾光による『春秋釈例引序』が梁に所蔵されていたことを記録している。杜乾光は『周書』杜叔毗伝に「杜叔毗字子弼。其先,京兆杜陵人也,徙居襄陽。祖乾光,齊司徒右長史。父漸,梁邊城太守」とあるその人だろう。京兆杜陵の人、つまり杜預の後裔である。

 上記の杜叔毗は『左伝』に最も長じていたと評されており、杜預の玄孫である杜坦とその弟の杜驥が劉宋において青州刺史となり斉地にその学問を伝えていた*1

 そのような京兆杜氏に連なる杜乾光が『集解』序を『釈例』序と誤認したとは俄かには信じがたいのであるが、『正義』と隋志を読んでいて目に留まったのでネタ切れ解消の博雅の教示を乞うため、書き記しておく。

*1:晉世,杜預注左氏。預玄孫坦、坦弟驥,於宋朝並為青州刺史,傳其家業,故齊地多習之。(『北史』儒林伝 上)

京都大学人文科学研究所付属漢字情報研究センター編『三国鼎立から統一へ 史書と碑文をあわせ読む』

 東京国立博物館で開催中の「特別展 三国志」。展示の開催に合わせて、三国志関係の書籍も陸続と発売されている。特に、近年発掘された出土史料とその研究成果を盛り込んだ書籍が目立つ。とはいえ、今年以前に発売された魏晋期の出土史料を扱った書籍は少なくない。表題の書籍もその中の一冊である。

 本書は魏晋期の石刻史料に焦点を当てた4本の論考より構成されている。いずれも出色の内容ではあるが、長々と書くのも気が引けるので、管理人おすすめの藤井律之「魏から晋へ―王基碑―」を紹介したい。

 王基碑(厳密には碑文に王基の名は確認できないが、記された官歴や没年などが『三国志』王基伝と一致するためこう呼ばれる)は清の乾隆年間に出土した碑。当時まだ彫られていない朱色の文字が残っていたと伝えられていたが、記録されなかったためその内容と文体について喧々諤々の議論が交わされてきた。

 同碑には2つの謎があるという。ひとつは碑文の本来の姿、そしてもうひとつは碑文が未完成に終わった理由である。前者について著者は従来の説を批判しつつ擡頭や押韻といった点から王基碑の復元を試みるのであるが、その手法は中国公文書の書法の解説としても読者は得られるところが多いだろう。

 次に後者であるが、著者は司馬懿がクーデターにより曹爽一派を駆逐した正始政変の影響を読み取る。碑文の製作者である故吏と碑文により顕彰を受けるその上司との関係に触れ、故吏にとって碑文制作はとりもなおさず官界進出のためのアピールであり、またこれは逆にかつての上司が罪を犯した場合は連座するリスクもあった、とする。

 王基もまた司馬懿に放逐された曹爽の故吏であり、そのため河南尹への任命をとりやめられるほどであった。しかし政変後に司馬氏に転じ文欽・毌丘倹の乱で許昌の兵を率い、諸葛誕の乱では諸軍を監督してその鎮定に功績を挙げた。

 王基は魏の末期である景元2(261)年に死んでいるのであるが、晋王朝成立後に死亡した盧欽らとともにその家に穀物が下賜されている。また、『水経注』によれば王基の死後、その末娘が晋の梁王に嫁いでいる。魏の臣として死んだ王基は晋王朝から積極的に顕彰されることになったのである。

 著者によれば王基碑は司馬懿を皇帝として扱っていないことから(碑文の「後辟大将軍府」の「大将軍」が司馬懿に比定されるため)、西晋期ではなく王基没から魏滅亡までの数年間に作成されたという。魏への忠義を表に出せなかったこの時期、魏の臣として王基を顕彰する碑はその一族にとって迷惑以外の何物でもなく、そのため途中で制作放棄されたのであろう、と著者は結論づける。

 著者が提示する王基碑制作放棄の背景からは、魏晋革命に翻弄される士大夫とその一族の姿が見えてくる。また、碑文の制作には時間がかかり、その間に政変が起こり労力が無駄になるリスクがあったことも読み取れる。

 この後、晋の梁王に嫁いだ王基の末娘と東晋建国に話は及ぶのであるが、それは割愛する。ただ、いずれも歴史の皮肉を感じさせるもので、本論考の「オチ」とも言える内容となっているので、ぜひ読んで欲しい。

荊州における范蠡

 范蠡といえば、春秋時代の越に仕えて越王勾践が呉を滅ぼすことに貢献した名臣として著名である。『史記』では引退後に巨万の富を得た商人として描写され、また『漢書』芸文志には兵家としてその名に仮託されたと思われる「范蠡二篇」が見える。

 他の先秦期の人物同様、後代に様々な伝説が付加されていった范蠡であるが、昨年に中華書局より出版された黄恵賢『校補襄陽耆旧記(附南雍州記)』(初出は中州古籍出版社、1987年)を読んでいると興味深い記事が目に入った。

峴山南有習郁大魚池,依范蠡養魚法,當中筑一釣臺。(『太平御覧』地部 池溪壑引『襄陽記』)

 峴山の南には光武帝期の習郁(『襄陽耆旧記』【『襄陽記』】の編者である習鑿歯の祖先)の大魚池があり、習郁は范蠡の養魚法にならい、釣台を築いたという。

 『文選』に収録される張協「七命八首」の李善注には「陶朱公養魚経」なる書物が引用されている(『隋書』経籍志では「陶朱公養魚法」)。成立時期は不明ながら、斉の威王に蓄財の術を聞かれた陶朱公が鯉の養魚法でもって答える内容となっており、范蠡に養魚家としての性格が付加されていたことがわかる。

 上述の逸話は東晋期の『襄陽耆旧記』に収録されているのであるが、南北朝期には范蠡荊州の出身者とする認識があったらしい。やや時代が下るが劉宋の盛弘之『荊州記』は荊州范蠡の墓があり、宛の出身であったとしている。

荊州華容縣西有陶朱公冢,樹碑云是越范蠡范蠡本宛三戶人,與文種俱入越,吳亡後,自適齊而終。(『史記』越王句践世家『正義』引『荊州記』)

 また『呂氏春秋』二月紀の高誘注には「范蠡,楚三戶人也,字少伯」とあり、後漢(下記の【追記】参照)には范蠡が当時の荊州出身とする説が既に存在していたようだ。

 『国語』や『史記』に拠る限り范蠡の出身地は不明であり、引退後には斉で財を成して陶で鬼籍に入る。荊州に繋がりがない范蠡が同地の出身とされ、また最後の地とされ、さらには養魚を媒介として地元累代の豪族である習氏と結びつけられていくその展開は、説話が持つ広がりの可能性がうかがえる。

 

 【2019/09/28 追記】

 『史記正義』越王句践世家に『呉越春秋』を引いて「蠡字少伯,乃楚宛三戶人也」とあることから、范蠡荊州出身とする説は後漢初期に遡る可能性をご指摘いただいた。当該条は現行本には見られないが、張守節が見た版本には収録されていたのだろう(現行『呉越春秋』は十巻本だが、隋志および唐志によればもと十二巻本とされている)。

「玄」は何者か

 先日、芸文印書館の十三経注疏『左伝』を確認していて気になったこと。

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鄭玄云不可以國語亂周公所定法傳玄云國語非丘明所作凡有共說一事而二文不同必國語虛而左傳實其言相反不可強合也(『春秋正義』哀公十三年疏)

 いま敢えて白文で書き起こしたが、黄池の会で血をすする順序を『左伝』は晋を、『国語』呉語は呉をそれぞれ先としていることから、『国語』の記述は『左伝』と同等に扱えるのかが争点になっている。ここでは冒頭に鄭玄の説が引用されており、さらに「玄云…」とある。しかし鄭玄の諱をわざわざもう一度書いていることに違和感を感じた。そこで参考までに北京大学の標点本を瞥見すると、以下のようになっている。

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 芸文印書館本で「傳」とされていた字が「傅」になっている。つまり、疏が引用したのは鄭玄ではなく魏晋期の学者である傅玄だったのだ。

 なお、芸文印書館本で他の「傅」を含む条文を複数件確認したが、一例として、両字が比較しやすい「春秋序」の一節に対する疏の画像を以下に貼る。その違いは一目瞭然だろう。

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 本記事で問題にした哀公13年の疏文には校勘が付されていないが、ここは『左伝』と『国語』に対する傅玄の認識を示す重要な一文であるだけに、残念度の高いミスである。

 

 【2019/09/28 追記】

 中華書局本『十三経注疏』では「傅玄」となっていることをご教示いただいた(ありがとうございました)。確認できたので、以下参考までに。

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